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うさぎさんのひとりごと  ( 2002.2.28 up )


出会い 2001.11.11(日)

いきなりであるが、大のマンガ好きである。
昨晩も、日渡早紀の『未来のうてな』を読みふけっていた。

マンガとの出会いは小学校4年。隣のお姉さま(母のいとこ)の部屋に遊びに行った時のこと。
片隅に積んであった『少女フレンド』。月刊だったか週刊だったかは覚えていない。
その中の大和和紀『ダンディライアンの丘』にとても感動したのである。

兄妹がお互い惹かれあう。実は本当の兄妹ではない。最後は涙、涙のハッピーエンド。
今思えば、非常にくさい内容である。しかし、若干10歳の少女には(そんな時代もあったのだ)、
初めて知ったその境遇に、心撃たれてしまったのである。

少ない小遣いから『なかよし』を買いはじめた。なぜ、いたく感動した『フレンド』にしなかったかというと、
隣に行けば読むことができるからで、しかも『なかよし』には付録が付いているからである!
(これは重要なことである。今も実家に行くと、まだ残っている!)
すでに『りぼん』を読んでいた友達にも借りて、とにかく夢中になった。

小学校6年になると、『マーガレット』の友も加わり、マンガマンガの毎日である。
『ベルバラ』 『エースをねらえ!』 『キャンディ キャンディ』 『おはようスパンク』等々。
解らないか(笑)
語ると切りが無い。

今、1番めの豚児とりさんが『コロコロコミック』に夢中である。
「おやすみ!」なんて2階に上がっても、ベッドの中で読んでいたりする。
「いい加減にしたら!」
20数年前にうるさいほど聞いたセリフを、今吐いている。
廊下の本棚にびっしりの単行本を横目にしながら...

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出会い その2 2001.11.13(火)

マンガが好きなら、アニメも大好きである。
でも初めては覚えていない。『ライオン大帝』『黄金バット』を記憶しているので
かなり古い(笑)。

映像自身もさることながら、主題歌も歌えてしまう。
昨年、いや一昨年だったかもしれない。アニメの情報番組があった。水木一郎が毎回のように
『マジンガーZ』を熱唱していた。
「空に〜そびえる〜黒金の城〜〜♪」  どうしても一緒に歌ってしまう(笑)。

このごろ、歌謡曲もアニメもリメイクが多い。数年前に『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』
そして『キューティーハニー』が登場した。
夢中でTVに囓りついている、豚児その1とりさんの横で、大声で歌ってしまった。
「ハニーフラッシュ!変わるわよ〜♪」

実は始まったばっかりで、新しいものなら絶対覚えられるはずがない!のである。
それを最初から最後まできっちり歌ってしまったから、なんで?なんで?である。
「うちのおかあさん、歌えるんだよ!」と保育園で自慢したらしい。
でお迎えの時間に子供たちに「すご〜い!」と誉められ、いい気になって歌った。

「あら、懐かしいわね!」

そこに登場、園長先生。ははは...すっかりばれてしまった。
で、ついでに「みんなで歌おうゲゲゲのゲ」と歌わされた。

今、豚児その2とらさんの保育園では、『ウルトラマンタロウ』が受けている。
「タロウ!タロウ!タロウ!ウルトラマンタロウ〜♪」と口ずさむと、3歳児の合唱に
なってしまう。

個人的には『タイムボカン』が好きである!
「すっきなもの、すっきなもの、ダイアモンド〜〜♪」ってか。


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どうしただろう 2001.11.14(水)

アニメといえば、最近ないのが外国もの。
『チキチキマシン』は有名だが、マジックベルトをむぎゅっと締めてウェストが
妙に細くなる英雄ものや、『スーパースリー』なるデコボコ3人組の漫才もの。
「ラムジ〜ラムジ〜おちゃめちゃん♪」というあまのじゃくな子羊が出てくるハチャメチャもの。
フランケンシュタインが出てくる幽霊ものもあったなぁ。

『マンガの国』、テレビ東京はアニメの宝庫であった。

今もテレビ東京は視聴率が高い!だろう。
『ポケモン』 『遊戯王』もこの局である。
最近始まった『ひかるの碁』には私も夢中である。囲碁を勉強し始めてしまった(笑)
そういえば、「○○なのだ!」が口癖の『ハム太郎』もそうである。
おかげで火、水そして木曜は、東京12チャンネルである(昔はそう言った!)

で月曜は? 『犬夜叉』『名探偵コナン』で日テレ。
で金曜は? 『ドラエモン』『しんちゃん』でテレビ朝日。

見事に5日間アニメ漬けである!

ところでお題目の「どうしただろう」であるが、
別にちょっと外国ものがないなと思っただけのことである(笑)。


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懐古 2001.11.15(木)

ちょっと時をさかのぼってみる。
貴殿は、20年前何をしていただろう?

「きゃ〜あんよ上手よ〜(@^^@)」なんて言われていたかもしれない。
「サンタに何をお願いしようかな?」と幼気にもワクワクしているかもしれない。
クリスマス会に向け、お遊戯や劇を練習中かもしれない。

小生は...もう『受験生』である。しかも『大学受験』である(涙)
1月15、16日の『共通一次試験』(当時はそう言ったのだ)に向け、毎日ほぼ徹夜状態である。
別にすごくはない。ほとんどながらであり、真横でラジオがずっと吠えていた。
半分はラジオを聞き入っていた。

大好きだったのが、『パックインミュージック』ある。15年続いた長老的番組で、
日本放送の『オールナイトニッポン』と張り合っていた。毎日聞いたが、
特に人気のあった金曜(もう日付は土曜だが)、通称『金パ』に夢中であり、これは
1年後終了するまで約7年間聞き続けた。パーソナリティは、野沢那智白石冬美である。

当時、中島みゆき松山千春が『オールナイト』を征し、歌謡曲とおしゃべりに花をさかせていた。
この『金パ』はハガキが中心の番組である。2人は声優である。

野沢那智は洋画が多く、アランドロン(知らないか...)やブルースウィルスの声で有名である。
イイ男が多い。しかし!『チキチキマシン』のナレーションも彼であり、ちょっとオカマっぽい役も多い。
そういえば、『しんちゃん』のハイグレ魔王や『いじわるばあさん』のばあさんも彼だ。
白石冬美はもっぱらアニメで、『ガンダム』のミライさん、『パタリロ』のパタリロ、古いところでは『巨人の星』の
飛馬の姉明子というところだろうか。実は少年役が多い。

読まれるハガキの内容も種に富み、また他声優の登場も多いので裏話なども聞くことができ、
アニメファンの私には聞き逃すことのできない一本であった。

これが終わると、朝3時『歌うヘッドライト』。トラック運ちゃんからのリクエスト曲が中心の、演歌の時間である。
現在TBSテレビ土曜夜10時の『ブロードキャスター』司会、三雲孝江もパーソナリティを努めていた。
小声で(とりあえずまだ暗いので)こぶし効かせながら、問題解いていた。

そして5時。そろそろ眠くなる。ちょっとだけグ〜〜。6時30分起床(笑)
今思えばよく身体が保った。

番組が少々つまらないと、『QUEEN』『ABBA』(2番目のBは本当は逆)、『ゴダイゴ』を聞いていた。
そんな時代だった。


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アルバイト 2001.11.16(金)

父が「自分で会社を作る!」と言い出したために、奨学金とバイト代で生活した学生時代。

最初のアルバイトは『ストッキングたたみ』である。今『満足』(彼女にでも聞いて下され)で有名な
繊維会社福助
工場でラインに乗った。
お昼休み45分、3時休み15分を除き、一日立ちっぱなしである。
今は解らないが、当時は人間がストッキングをたたみ、袋に入れ、セロハンテープで口を止めたのである。
小生、たたみ屋である。素手なので、ちょっとでも引っかけるとB級品に落ち、下手するとゴミ箱行きである。
神経使い、足腰ガクガクになり、時給410円であった。2度とやりたくないバイトである。

もっと割のいいものをと、甘い誘いに乗ったのが『パソコンプログラム作成』。まだDOSのない時代。
このバイトには、まず教育を受ける義務があった。1時間2500円払い、8時間受けないと
仕事にありつけないのである。1日1時間しか受けられず、渋谷までの8日間の交通費と講習費を
払わされた。それでも仕事に就けば!とがんばったのに、必ず仕事があるとは
限らなかったのである。いくつも面接に通いそしてNG、お金も底をついた。
で、とうとう諦めた。結局収入は0であった。

この出費を埋めようと、下宿から数分の電話部品工場に通った。『絶縁体巻き』である。
まだダイアル式がほとんどの家にあった時代、内部に小さなコイルを持っていた。
電線の巻かれた、ちょうどミシンのボビン程度の大きさの巻きの部分に、緑のビニルテープを
巻き付ける。少しでも歪んだりしわ寄ったりするとやり直しになり、下手するとゴミ箱行きである。
1巻き5秒程度、一日この繰り返しで、時給500円であった。単純作業はもう2度とやりたくない!

下宿先は女子4人、お風呂とトイレが共同であった。木造築20年で、すきま風がよく入った。
わたし以外は某DB大学で、3年生から板橋校舎へ移動になる。「私の後を次いで!」
ということで『つぼ八』が始まった。
中生グラスなら両手10〜12本持てた。ザンギなどの大皿も、片手2枚は当たり前。
大声を張り上げるのでストレス解消にもなった。時には飯ものも担当した。フライ返しは
ここで学んだ。大学内ちょっと顔が売れていたので、お客が増えた。おかげで報償金が出た。
とにかく楽しかった。勉強そこそこでバイトに明け暮れた。必須単位落としてものすごく焦ったが
とにかく働いた。閉店後その場で飲み、その後4、5時から別の処で飲んだ。帰るころ、
始発が動き出していた。

もっと割のいいバイトで忙しくなるまで、1年半ご厄介になった。その後は客になった。
実はこの『つぼ八』を始めてから数ヶ月後、掛け持ちになっていった。
もう一つの居酒屋学習塾、そして家庭教師。長期の休みは昼間に警備もやった。
ついでに中学校の教師などもやってしまった。

最初は貧乏で、毎日あり合わせのお弁当を持っていったが、最後には学食の
一番高いランチを食べていた。

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小出し 2001.11.29(木)
人は現金である。

保育園は午後6時を過ぎると第2回目のおやつが支給される。しかし、これは別料金である。
通常保育は4時までで、無料延長が6時というのが一般的現状である。日立市立だとその先はない
豚児たちの通う『かしま台保育園』はあと1時間の有料延長がある。1回300円なので
小生は600円を払わされる。おやつが配膳された時点で課金となる。6時前後は父兄がダッシュする。

当然小生もダッシュ組で、10月は3600円も取られてしまった。これなら買い物してから迎えに
行った方が得であると何度思ったことか。
3日前もギリギリセーフ。もうおやつが其処にある。当然豚児は食べたい! で、泣く
6時過ぎに泣いている子供は、大抵この食べたいのに〜!である。

そこで、「帰ったらミルクアメあげようね。」とごまかした。
単純なもので、それでご機嫌になる。
家に着いてすぐ、「ちょうだい!」ときたので、先日買っておいた目の前で開けた。
これが敗因である。翌日も「ミルクアメなめていい?」となった。まぁいっかと、あげた。
またこれがいけなかった。2度あることは3度である。

昨日もOKだったから今日も大丈夫!なのである。期待させてしまったのだ。
しかも沢山入っている袋を見ている。無いとは言えない。
昨夜は、大好きなミカンを食後に食べることと、引き替えにした。

日立市でお世話になった『森山聖徳保育園』は、運動会の日にバザーがある。通園を始めて2年目、
手芸の大好きな小生は、手作りの手提げバッグやウォールポケット(壁に掛けて物を入れたりするもの)など
を出した。当時懲りだしたパッチワークとキルティングを駆使し、ウォールポケットは1800円で売れた。

さて小生も楽しみになった2年目、牛乳パックを使った六角柱のイスを2つ作った。1つはキティ
もう1つはピカチュウのアップリケ付きである。なんと両方で4000円の売り上げである。
バザーとしては最高値であり、2年続けて保育園の収入に貢献したのである。

と来れば、3年目は?となる。「今年も楽しみですね。」な〜んて園長先生にまで言われてしまった。
しかしこの時、某工場の『入出金システム』開発で、ちょっと忙しい日々を送っていた。夜なべする気力も
無かった。小生今年はタオルと皿で済まそうと思っていたところに、一言!である。

自分の力は他人に知ってもらいたいのが心情である。期待されることは、うれしいだけではなく、
これからのやる気や励みに繋がる。仕事なら給料アップに繋がるかもしれない。
しかし、負担も背負うことになるのである。今まで許されていた失敗も、目をつぶってはくれなくなる。

小生、昼休みにもできるように、編みぐるみに決めた。キティが黄色いクマとピンクのウサギに変身する
ラブリ〜な2体を仕上げた。これは、キティラ〜である先生がバザー前に買ってしまった。2000円で。

4年目は、1つあたりの金額を500円までにしようという父兄の案が採用されたので、経費を下げて
ステンシルとキルティング技法を使ったポーチを3つと、またキティのアップリケをした弁当袋を2つ。
弁当袋は、子どもたちで競争だったという。小生と仲の良いお母さんから「娘が悔しがっていて...」
と後日聞かされた。

負担をも吹き飛ばせる20代は、出し惜しみせずガンガン突きだしてほしいものである。
しかし小生、少々疲れた。がんばりきれる自身が少なくなった。努力を惜しむつもりはさらさらないが、
何でも小出しが楽だと悟った。相手をがっかりさせない程度で、期待を少々残していただける量を
表にすることにした。ずるくなった。

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夢 2001.11.30(金)
小生、生まれた場所は福島県。伊達郡桑折町という小さな町に7歳まで居た。
もう30年も経つのに、その風景は鮮明に覚えている。

町立小学校だったが、この時期、この地方色豊かにして、各教室にTVがあった。
放送局もあり、週1回どこかのクラスが発表をしていた。1年1組我がクラスは、
3匹のこぶたの人形劇。切り抜きに割り箸をつけただけの超〜簡単な人形で。

発表後、みんなで作ったその人形を、教室後ろの壁に画鋲で貼り付けた。
近く、文化祭があって父兄が学校に来るからだ。
この作業、終業後に私が先生を手伝った。貼るのはランドセルの棚の上。上っていて
幾つめかの画鋲を押したとたん、反動で下に落ちた。イスの角におでこをぶつけ
3針縫った。ターバンのように白い包帯を巻き、文化祭では鉄琴をたたいた。
通った病院の建物さえ覚えている。

覚えている中に一つのがある。

小学校には銅像なんてものがエラソ〜に置いてあることが多いが、ここも例に漏れず
『角田×××』とやらの上半身が玄関前にある。この人物当時まだ生きていた。

町の有力者であり所有地も多く、保育園や幼稚園の遠足は、この角田家の別荘の庭
である。小生の住む長屋近くに本宅があり、町中央の南北に走るメインロードと
その東500mくらいにやはり南北に走る国道4号線との間、ほとんどその家の壁が続く。
この壁、時代劇に出てくるような雰囲気があり、ところどころ松の枝などものぞき、
まだ幼き小生も、なぜかこの壁をじっと見つめたことが何度もあった。

ある夜、その壁づたいに並んで座る、田舎侍や町民があった。みな自決している。
腹を刺す者、刺し合う者。苦しそうに悶える人々の姿があった。

翌日の登校は、この壁を見られなかった。ずっと右側に顔を向け、ひたすら足を動かした。
この夢、まだ時々脳裏をかすめる。

なぜこんなに覚えているのかは解らない。前世の風景なのだろうか。

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つまらない時代 2002.01.15(火)
成人式場で新成人が乱闘を起こし、大騒ぎになってから1年。各自治体が式次第を工夫し、
また父兄同伴例などもあり、今年は何事もなく...などというニュースがラジオから聞こえてくる。
このごろ、朝豚児達を保育園に預けた後、会社へ向かう車内の小生は、ぼ〜っとしている。
通い慣れた道である。考えずとも体が車を動かしてくれる。いつのまにか到着している。

今日、このぼ〜っとしている頭で考えていたことは、車のことであった。
「この車はなんだろう?」「ずいぶん足を堅くしているなぁ。」「これは古い!学生時代のだ。」等々。
10年も前なら、ロゴを見なくても車種は解った。しかし、このごろロゴ見ても読めない
車種もごちゃごちゃ。「こんなの有ったんだ。」
歳とったからかもしれないが、でもよく見ると、みな形が同じようではないか?

板金屋泣かせのようなボディサイドのとんがり。ちょっとヘッドライト周りをへこませて、おしりを
ちょっと膨らませて、なんとも悩ましいテール。一目で名前が解る。そんな個性的な車が無くなった。

車なんて自己満足の物だった。自分が乗れればいい。TOYOTAの『MR-U』なんて2人乗りの車も
結構好まれていた。「イニシャルD」なんてマンガで有名になった「ハチロク」、TOYOTAの
『レビン』/『トレノ』なんて後部座席の無いものも結構走っていた。
仲間と飲みながら語るのは、どこに突っ込んだとかコケたとか、パンダとじゃれ合ったとか。
半分自慢である。今でも会うとその話題で尽きない。

今、楽しかったころと同世代の男の子が買う車は?というと、ワゴン車である。
「みんなでどこかに行きたいから」、「みんなで遊びたいから」だと言う。

そんな気持ちは小生も同じだったし、仲間も同じだったと思う。だからよく集まったし夜通し飲んだ。
でも個人も楽しんだ。まず自分だったように思う。
自分を楽しんだからその気持ちを仲間にも、そんな掛け合いだった。
仲間同士で出かけるときは、競争を楽しんだ。ウィンドウ越しに目で合図し、付きつ離れつ、
追い越したり追い越されたり、車内は大騒ぎだった。
みんなで一緒の車内。何をして過ごしているのだろう。

豚児1号とその友達。いつも友達!友達!と言っている。自分1人はつまらないと叫ぶ。
でも、そういう風に叫ぶ豚児1号たちだが、簡単にふったりふられたりしている。
執着がない。約束を放ったらかしにするが、お互いあまり気にしていない。
空き地で集まっている姿を見ると、お互いがピコピコゲームボーイを握りしめて真剣になっている。
一緒に居る必要はないのでは?何が楽しいのだろう?  後ろ姿はみんな同じに見える。

なんだか小生のほうが、つまらない。

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爺婆戦争 2002.02.28(金)
いつも洗濯物でごった返ししている和室。先日から、ちょっと華やかになった。
豚児3号おひめちゃんのお雛様が登場したのである。
昨年、引っ越し間近であったため『来年よろしく』と小生側の爺婆に言っておいたので、
2月上旬、買ったぞ!と5時間かけて運んできた。

小生、実は人形は好きなほうで、マイホームに和室をきっちり作ったのも、
その季節には飾りたいがためである。 しかし、おひめ当人はあまり関心が無いようである。

光源氏の物語が書かれた平安の時代。娘が入内(皇室入り)ともなると、それは大騒ぎであり
調度品や何やら嫁入り支度が大変であったという。身分が低く支度ができなければ、世間のヤジが飛ぶ飛ぶ。
貰う側は娘欲しさに、支度金を与えて用意させたという。
その娘に子ができれば、実家はお祝いの品をこれまた山ほど届ける。入内元の家は大変な名誉であるため、
どの家も「娘を入内!」と狙っており、入内後も「いつでもバックアップできるぞ」と、何かにつけて
財力を示していたという。初節句の人形も、その機会であったのかもしれない。
昔は、嫁ぎ先(嫁を貰った側)は祝いをもらう一方であった。

年越しは外国で!GWも旅行!と、昔の色が薄くなってきたこの世。核家族が増え、住宅事情も厳しくなり、
祝いの品祝いの金に変わってきている。
欲しい物を買ってください!ということで、渡す側も悩まなくてよく、貰う側も自分達に合った品を選ぶ
ことができ、全くもって都合がよく、丸くおさまっている。

でも、こと雛人形とランドセルになると違う。しかも昨今は嫁ぎ先側で、自分の孫に買いたい!
増えてきた。慣習なんてなんのその、自分の気持ち次第である。
別にそれで全く構わないことなのであるが、嫁の実家とぶつかるから叶わない!
嫁の実家だって、もう9割方孫かわいさであり、そこに『慣習』を裏付けているだけである。
どっちが買うの買わないのと、仲介役の孫の父母はうんざりである。

小生、豚児3人を出産したが、2号3号を身ごもったと同時に考えたこと二つ。
  その1 どこで出産しようか...
  その2 この『争い』をどう対処しようか...

出産をやめようかと思うくらい負担であることを、爺婆達は知らない。

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